ソーシャリーエンゲイジドアート展 社会を動かすアートの新潮流を3331アーツ千代田で観てきました。
そもそもソーシャリーエンゲイジドアートとは何か、それが展覧会概要にあるので、引用すると、
「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」は、現実社会に積極的に関わり、人びととの対話や協働のプロセスを通じて、何らかの社会変革(ソーシャル・チェンジ)をもたらそうとするアーティストの活動の総称です。
とのことで、絵画の中の歴史や文脈を意識して社会的な内容も取り込みつつ作品を作るような作品の作り方ではなく、社会に介入するような関わりを持ち、アートとしての視点を追加することで、ひいては社会全体に影響を与えるかもしれないものを作品とするのが「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」と思っています。
そういう意味では、社会もしっかりと理解していないといけないし、単に意見や見解のようなものにならないアートとしての独自の視点も必要不可欠な要素になってくると思います。そういう意味では今回の展覧会はいわゆる地域アートというようなものとは違ってその視点をもっていればどんな地域でもその作品は成立し、地域ごとの色の違いがより顕著になるだけであるとも考えられます。
いろいろ見ているなかで、やはり丹羽良徳さんはやはり強烈で、「より若い者がより歳をとった者を教育する」という生徒と教育者の立場を反転するという許可がおりずに失敗したお題に対して、さらにそれの許可を取るための紆余曲折の部分を生徒に演じさせる子とによってある種のお題の成立を目指した作品などは、わかりやすくソーシャリー・エンゲイジド・アートを感じました。
MOTサテライトにも出ていたmi-ri meterや、銃を溶かしスコップに変化させて、それで木を植えていくというペドロ・レイエスさんの作品なんかも、木を植えるというヨーゼフボイス的な現代アートの部分と社会との関わり合いの部分をうまく使った作品であったと思います。
その他にもAi Weiweiの作品も出ていて、Ai Weiweiくらいになるとそのものが中国社会との関係性が強すぎるので何を作ってもソーシャリー・エンゲイジド・アートになってしまうのではないか?と思う部分もありますが、Ai Weiweiはどんな作品でも出来上がりが作品としての造形の強度があるからすごいなと思ったり。
やはりこの手の作品は最終的な出来が作品としての造形の強度がないと見るテンションが上がらないという部分があると思う。そういういみでは、なかなか動画だけで表現するのは難しいのかなと思ったり。まあ、動画の展示方法とか動画の内容でもどうにかなるところかもしれないのだけれども。
また、もう一つあったのが、海外の作家は社会の対象が大きいような印象を受けました。まあ、この辺はまだ日本の作家が(または出展していた作家がたまたま)大きなテーマを扱っていないだけなのか、その他、島国であるとかそういう何かが影響しているのかわからないですけども、海外の作家のテーマがしっかりとしていて大きなテーマなような気がしたので、そのあたりはまだまだ差があるのか、日本が平和だからなのか。そんなことを思いました。
とにかく、作家が社会を考えその考えについて鑑賞者が考えることで、社会について新たな側面からアプローチすることになり、新たな何かが生まれるかもしれないというのは非常に現代アート的で面白い展覧会だったと思います。ただ、まあこれだけこういう作品があると、時間もかかるし、集中力も持たないという意味では、なかなか大変な展覧会だとも思ったり。